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私の剣道

私は法政大学付属第一高等学校の二年の時,卓球部で練習をしていた所、隣の教室で剣道部が新しく新設され練習を始めました。 これが私の初めての剣道との出会いです。卓球部では卓球台が一台しかなく思うように練習も出来ず、面白くありませんでした。
そんな折りクラスメイトの高橋靖夫君の誘いを受け、まず台東区剣道連盟を紹介されました。 たしか昭和29年の秋頃の入門です。台東区剣道連盟は上野警察の道場で、週二回の稽古でした。師範高野孫二郎先生や多くの先生方がおり、良いご指導を頂き専ら掛り稽古を致しました。翌年の春審査会で一級の免状を頂き、三年生になると同時に剣道部に籍を移し稽古に励みました。剣道部の師範滝口五郎先生は日本体育大学の出身でこの時錬士五段で大きな激しい稽古で、足払いや組討を奨励し、まだ道場のない教室での稽古で良く床板を踏み抜くことが有りました。この頃台剣連の稽古は相変わらず掛り稽古のみで、稽古は激しく短く数多くを目標に稽古に励みました。高野孫二郎先生に突きの手ほどきを頂き、突きの原理を教えて頂き、突きの怖さがなくなり思い切っての稽古が出来るようになりました。
法政大学に進学して剣道部に入部し稽古にはげみましたが。そんな折稽古熱心な高橋靖夫君が「一ッ橋の国民体育館で凄い先生方が稽古して居るから行ってみないか」と誘われ、見学にいき拝見したところ、物凄い稽古で体当たり・足払い・組討・左右の横面・諸手突き・鍔競り合いからの引き篭手裏突き・等々何でも有りの棲 まじい稽古で、当時165Cm・50Kgしかない私では到底耐えられない稽古だと思いました。
稽古が終わり、控え室に皆さんが引き上げてきた時、その雰囲気は今までの殺伐たる稽古とはうって変わって和やかな談笑の場でした。その中で高橋君に羽賀凖一先生を紹介してもらい、初めて羽賀先生のお話を聞かせて頂きました。そのお話を聞いて、この稽古をやりたい気持ちと私には出来ない、と思う気持ちが半々でした 。
大学進学前は蔵前に居ましたが、進学後は市川に住んでおり、台剣連の稽古・大学の稽古それにこの一ツ橋の荒稽古は私の体力ではと思い恐る恐る「日曜日だけでも来て宜しいですか」と言うと、羽賀先生は「君の好きなように稽古したまえ」と言われ、後で知りましたが、「来る者拒まず、去る者追わず」でした。
そんなことで日曜日だけ稽古にいきました。何回か行くうちに稽古が終わってからの談笑の内に、剣道に対する考え方・人としての生き方・基本・姿勢・呼吸の仕方・等々のお話があり、何時の間にかそのお話に感化されたせいか毎日国民体育館に通うように成りました。稽古は専ら切り返し・体当たり・掛り稽古でした。
前に高野孫二郎先生に突きのご教授を頂いており、また高校の時滝口五郎先生より足払い組討を教わっておりましたので先輩諸氏との稽古では突きも足払いも組討も怖くは感じませんでした。 その稽古を見ていて下さったのか知りませんが、羽賀先生には良く稽古を付けて頂きました。
昭和31年の末頃ストーブに火が入る季節の入門でした。その頃の国民体育館には全剣連の渡辺敏雄先生や湯井正憲先生方が来ており、現羽賀道場の師範張東緑先生や中央大学の学生が7〜8名、一般の方では笠原兄弟・葛城先輩など総勢20〜30名程で稽古をして居りました。
昭和32年春頃からやはり高橋君の呼びかけで法政剣道部から、久保田・小海川・川名・寺内等も参加しました。また34年に法政二高から法政剣道部に入った藤田毅君も弟子入りしました。
稽古は居合で始まり、朝7時頃から剣道の稽古に入りました。居合は約1時間、稽古は早い時で30分、長くても50分程度でおわりました。余りにも激しい稽古なので1時間と持たなかったようです。
その様な稽古のため居合をしない先生方や一般の方々は一人去り、二人去りで段々居なくなり、羽賀先生を慕った中央大学の学生や法政大学のメンバーと張東緑先生・笠原兄弟・葛城先輩等の理解者のみになってしまいました。私は体力的にまだ自信のないままでしたが、羽賀先生に連れられて皇宮警察の済寧館や講談社の野間道場や持田盛二先生の妙義道場にと色々な所で稽古をする事が出来ました。
そのため台剣連や法政剣道部の稽古は欠席がちになり、自然退会のかたちになってしまい、誠に申し訳ないと反省しております。
その代わり益々羽賀先生の教えに引き込まれ、朝も6時前に道場に入り、掃除から始めるようになりました。
入門当初は居合をやる関係も有ったと思いますが、羽賀先生が一番に来て掃除やストーブの火を付けて居られました。今思うと誠に申し訳なく思います。

        
(上の写真をクリックすると、大きな写真が表示されます)

昭和33年だったと思いますが、中央大学の先輩達の卒業記念か、羽賀先生に連れられて中央・法政のメンバーが京都武徳殿でおこなわれた高段者大会に行き、大会前日の合同稽古に参加させて頂き、良い経験と思い出を持ちました。
昭和34年、中央大学の先輩達があらかた卒業してしまい、学生は法政のメンバーが中心に成りました。
昭和35年、今度は我ら法政メンバーの卒業です。
幸い私は父の経営する会社(おもちゃの問屋ですが)で自営業ですし、元の蔵前に移りましたので朝の稽古にはバイクで行くことが出来ました。
高橋君他のメンバーは仕事や郷里に帰るやらで、居なくなり、法政は私と藤田君しかいなく、学生が少なくなってしまいました。
その後東大の学生が数名みえたと思います。そして羽賀先生が色んな所から居合の演武を頼まれると私に電話があり先生の前座を務めさせて頂きました。
この頃、故元外務大臣園田直先生が合気道の植芝盛平先生の紹介で羽賀先生に入門されました。
昭和38年10月結婚し、この頃から東海道・近畿・関西地区と出張が多くなり余り稽古が出来なくなりました。
この間、神奈川の塚越健二君や現羽賀道場の三代目会長卯木照邦君、有信館大畑郷一の息子大畑宗郷君等が引き継いで稽古しておりました。その内国民体育館も共立女子大学に売却され、使用出来なくなり、水道橋の後楽園ジム(元講道館)に移り稽古しました。
その後家業の仕事が忙しくなり、地方出張が多く暫く稽古から遠ざかってしまいました。
昭和41年12月11日突然、羽賀先生の死を知らされ愕然としました。ああ!これで剣道ともお別れかと思いました。しかし羽賀先生の教えを受けこの剣風・考え方を慕う多くの弟子が居りました。その頃厚生大臣だった園田直先生などが中心になり、この教えを引き継いで少しでも後世の人々に伝えようとの気運が高まり、国民体育館の地名から一ツ橋剣友会・羽賀道場として会を作り、初代会長園田直先生・師範 張東緑先生を中心に北の丸の日本武道館小道場で稽古を始めました。
昭和54年7月我が羽賀道場の剣道大会の席で園田直会長より当道場の師範に高橋靖夫君共々私も推挙され、免状を頂きました。
現在は、園田直先生亡き後二代目会長兼師範張東緑先生も平成11年、御年75歳を迎えましたので、後輩の卯木照邦君を、三代目会長兼師範として推挙されました。
そして現在も羽賀先生の稽古ぶりを思い出しながら、研鑚努力して体当たり・足払い・組討・横面・もろ手突きの剣道、大森流・長谷川英信流・奥居合・試し切り・神道無念流の五加・高橋靖夫君の考案した組居合等々の真剣での居合・形の稽古を続けて居ります。
 


私の使用刀  平成19年6月更新

            
                  

    

    

 

 

現在稽古に使用している刀は二十七代兼元作の長さ77.1cm(2尺5寸5分)、反り1.6cm(5.3分)、重さ940g(刀身のみ)です。
元は1000gの重さでしたが60歳を過ぎましたので少し軽めにしようと樋を入れ60g軽くしました。

       

       

    60歳まで使用した刀は学生時代、羽賀先生に探して頂いた、一葵 主水正正清、長さ79cm(2尺6寸)、
    反り 1.8cm(6分)、重さ1050g(刀身のみ)の刀です。
 


この様に比較的重たい刀を羽賀先生から与えられた事は、今考えますと本当の日本刀の使い方を覚えさす為だったと思います。日本刀は本来両手で使用するよう出来ております。居合いは初めと終わりは片手で使いますが、中は剣道と同じ両手で使います。ゆえに片手で行う抜き付けや血振り・納刀のしぐさは軽い刀を使用すると手首を使う雑な一見早そうな見栄えの良いようなしぐさを覚えて本来の日本刀の使い方を間違えてしまうきらいが有るからです。手首の力だけで刀が自由に使いこなせるような方は人並み外れた腕力の持ち主でしょう。手首を使うのは斬りつけの時だけで、後はほとんど使いません。羽賀先生は重い刀を使い、良く他の先生方から「羽賀は重たい竹刀を軽く使う」と言われておりました。このことは刀・竹刀を腕全体・身体全体で使ったからだと思います。居合いの稽古に使用する刀の目安は一剣会羽賀道場のホームページを参照してください、そして少し重めの刀が使用出来れば結構と思います。


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