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ホームページ作成の趣旨

私の知る限り、現在の剣道・居合は、私の教わった羽賀凖一先生の剣道・居合とは、大分異なった所が有ると思われます。ゆえにあえて羽賀派剣道・居合いと称させて頂きます。私は専門の剣道家ではなく、ただ健康のために始めた剣道愛好家ですが、羽賀先生の理にかなった剣道・居合を残したいと思い立ち、 又この思いの強かった元外務大臣園田直先生の意思もついで一剣会羽賀道場のメンバーの研究材料に成ればと思い、このホームページを開設いたしました。また後日ビデオなども作成したいと思っております。 人は顔形が各々違うように、考え方・解釈のしかた等おのずと違うものです。羽賀先生から教えて頂いたことなども私の考え方・解釈の仕方で作成しましたが、しょせん素人の私です、教えの解釈を間違えている所も有ると思います、その様な間違えや私の知らない事 、ご意見が有りましたら、ぜひ教えて頂ければ幸いです。

羽賀凖一先生の剣道と居合

羽賀先生に教わった剣道と居合に対する私の考え方を述べさせて頂きます。
まず私はなぜ剣道・居合が今日まだ続いているのかを考えて見るとき、それは人間が生きて行くために必要とする教養を高める要素が色々と多く含まれており、これを修得する事により、より人間性を高め動物で有りながら動物と違う行いが出来る、人間を造り出す事が出来るからだと思います。
羽賀先生は常に「この様な痛い・苦しい思いまでして、何で稽古するのだ、痛い・苦しい思いをするのなら、何かそこに得るものがなければ稽古する価値が無いではないか」「やるにしても真剣に死に物狂いにやらねば、本物は見つからんよ。」と良く云はれました。
現代社会では剣道・刀が人を殺戮する道具とは思う人もいないとは思いますが、元は戦闘のためから始まった事であり、その行動には現在行はれている他のスポーツより激しい殺伐なるものが有ってしかるべきと思います。羽賀先生は有信館の荒稽古の中でも叉一段と荒っぽい稽古をされたようで、仲間や先輩はもちろん、先生方からもだいぶ敬遠されたとの事です。
しかし、当時学生だった私達には、まず第一に呼吸の問題(生と死)、第二に心の問題(体は誰が動かすのか?),第三に始めて剣道の基本(面打ち・切り替えし・体当たり・打ち込み・掛り稽古)と、ようやく剣道の話になると云う具合で,教え方は簡単明瞭で優しく教えてくれました。
見学した当初の稽古とは違い,おっかなびっくりだった私なども、ぐいぐい引っ張り込まれるばかりで、何時の間にか,この稽古にのめり込んでおりました。

剣 道

羽賀先生は常にこの様にも云っておりました。
「人が物を手に持って、何かを切るか打つかする動作には、全て原理原則が有り、全てに共通するものが有る。」と云い、竹刀・刀・餅つきの杵・薪割りに斧・金槌・ゴルフのクラブ・野球のバット・ホッケのステック等々これら全てオーバーヘッド(振り被り過ぎ)は良くないとされており、手の平は全ての指が道具に最初柔らかくフィット(触っている)して、切る・打つ瞬間に手を締め特に小指に力を加えるものであると、であるから竹刀・刀を振り被った時、剣先がさがるのは如何なものかと云い、非常に嫌っておりました。 叉これらの動作をする時、呼吸はどうしているか、呼吸を吸てる時に切る・打つ動作が出来るか?、 呼吸を吸うのは比較的短く瞬時に吸うことが出来ます、吐く時は逆に長く出来ます、また呼吸を止めておく事も比較的長く出来ます。
この様に人間の特徴などを考えると、呼吸を吐くか止めてでないと切る・打つ動作は出来ないと云うことです。
そしてこの呼吸及び動作を動かすのは心です、心によって呼吸や動作を調整する事が出来るものです。
昔の人(特に職人や芸術家等)は良く上手の人の呼吸を覚えろ,呼吸を盗めと云われます。羽賀先生に稽古をお願いし、終わった後,下がって正座して複式呼吸で息を整えながらの見取り稽古。この様にすれば短い稽古でも、非常に役立つものですし、羽賀先生曰く「一時間や二時間ぐらいの道場稽古で上手く成ったり,強く成ったりはたかが知れている。精進する、時と所は自身の心の中に有り、いたる所に有る。町の中で正しい姿勢で腹式呼吸をしながら歩き方・歩み足の研究。人ごみの中での体の捌き、(合気道の植芝盛平先生が人ごみの中での歩き方は、入身の体捌きで、付いて歩くのが大変だったそうです。)揺れる電車の中での体のバランス、座っては腹式呼吸と座禅や読書、等など、考え方一つで稽古の場はいたる所に有ると云うことです。

居 合

居合いについて羽賀先生は常に「剣道に活用出来るような物でなければ本物とは言えないよ」と言われ、又剣道も「居合いの斬りつけ・斬り下ろしなど活用出来なければ意味ないよ」と言われておりました。
居合いは一人で真剣を持つて行う稽古です。それだけに武士のたしなみとして・教養として・健康で強靭な精神を培うために行はれたものと考えられます。ゆえに人と争うことなく自身の身体の運用・物の考え方も含めいろいろな面で自己形成に役立つ稽古だと考えられます。
羽賀先生が私に宿題を出されました、それは「抜きつけで試し斬りをして見ろ」と言うことでした。それからは稽古の合間に抜き付けを研究し、試し斬りを試みました。その結論を言えば抜き付けでは斬れないと言う事を知りました。わらを直径15Cm程にたばね、水に漬けた巻きわらが、通常使用している日本刀では初発刀のような抜きつけでは1Cm程、下からの逆袈裟では3〜5Cm程、上からの袈裟がけでは5〜8Cm程しか斬れませんでした。(但し巻きわらを何かに固定すればいま少し切れます。)
そして私なりに自得したことは、通常の居合いで使用する日本刀は両手で持って使用されるように出来ており、刀の重さ、地球の引力を利用した上からの斬り下ろしが正しいものと考えました。故に重さ・引力に逆らうような下からの斬り上げは無いのではとおもいますし、ましてや剣道では下からの切り上げ技はありません。この様なことを総合して考えますと居合いでは抜き打ちの後必ずや両手で止めを刺す斬り又は止めの技を行っており、抜きつけの後は剣道です。
では抜きつけはなぜ行うのでしょう、これは相手の害意を察し相手の攻撃の気を怯ませその一瞬の隙に乗じて斬りつけ止めを刺す、いわゆる後の先の業です。ですから如何にこの抜きつけで相手を怯ませるだけの気迫と迫力が無ければ意味無いかお解かりに成ると思います。
尚 居合いは相手が仕掛けて来る技に応じて変化するもので、柄にかける手は初発刀の手の掛け方が基本で、いわゆる切っ先三寸の処で手の内で持ち方を変化させます。その時斬り付けに気を取られ左の引き手をお忘れに成る方が多く見受けられます。引き手は空手の正拳を打つときと同じく右手で打ちを出したとき左手は左腰の辺りに小指を身体に付けて引きます。この行為は右手に力を加える為の反射運動で、ラジオ体操の腕の振り方でも片手だけで振る運動は有りません。
血振いや納刀は本来戦いが終わった後ゆっくりとどの様なやり方でも良いのですが、それでは稽古に成りません。
血振いは今自分が人を切った興奮した状態の気を静めるしぐさと、俺は勝ったのだという誇りを示すしぐさを表すもので、静かな体勢の内に誇り高く威厳を持った態度が必要になります。
納刀は気を静めるように静かに行い他に攻撃して来る者は居ないか確認をするごとく残心の心で行います。この時刀は出来るだけ水平に運び、切っ先が入ったら出来るだけ早く腹を押さえるごとく鞘を元に戻し臍の前で鯉口と鍔が合わさるように納刀します、さすれば第二の敵に対してもすぐに対応できると 言うものです。

このようにして剣道も居合いも行うことは全て修養のため武士とゆうより人間としての教養・身だしなみとして行うものと思います。

 


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